【前半100 (紀元前〜1808年)】






1.
日本列島ができる 

約1万年前
1万円前金(約1万年前)で日本列島ください 

日本列島が、現在の姿となる

最後の氷期が終わり日本列島が完全に大陸から離れて現在の姿と環境を整えた。
2.
奴国の王が漢に使いを送る 

57年
こんな(57)金印がほしかった奴国の王 

倭の奴国が漢に使者を送る

それに対して、光武帝が「漢委奴国王」の金印を授けた。後漢書の東夷伝に記述。金印は1784年に福岡県志賀島で発見。
3.
卑弥呼が魏に使いを送る 

239年
文く(239)ださいと魏に使いを送る卑弥呼 

卑弥呼が魏に使いを送る

卑弥呼に親魏倭王の称号や銅鏡が与えられる。魏志の倭人伝に記述。
4.
倭王の武が南朝の宋に使いを送る 

478年
世の名は(478)武 

倭王武が南朝の宋、順帝に使いを送る

倭の五王は、讃・珍・済・興・武。宋書の倭国伝に記述。
5.
仏教が伝わる 

538年
百済の仏に、ご参拝(538) 

百済から仏教が伝来

欽明天皇の時代に百済の聖明王から仏教が伝来した。552年とする説もある。
6.
聖徳太子が摂政になる 

593年
国民(593)歓迎、聖徳太子が摂政に 

聖徳太子が摂政になる

おばの推古天皇の摂政となり,大臣(おおおみ)の蘇我馬子と協調しながら政治を行った。
7.
冠位十二階を定める 

603年
労を見(603)せる12の冠 

冠位十二階の制が作られる

氏姓制度の弊害除去、人材登用を目的とした我が国最初の位階の制度。徳・仁・礼・信・義・智の6つをそれぞれ大小に分け、冠の色と飾りで区別した。
8.
十七条の憲法を定める 

604年
群れ寄る(604)役人、十七条 

十七条の憲法(憲法十七条)を制定

聖徳太子が定めた日本最初の成文法。憲法と呼ばれているが、役人や豪族などが守るべき心得を明らかにしたもの。
9.
遣隋使を派遣する 

607年
無礼な(607)遣隋使、小野妹子 

遣隋使(小野妹子)の派遣

隋の皇帝は煬帝で、翌年答礼使の裴世清が来日した。
10.
第1回遣唐使を派遣する 

630年
蒸され(630)て命懸けの遣唐使 

第1回遣唐使の派遣

(犬上御田鍬)以降、約200年に渡り派遣された。
11.
大化の改新が始まる 

645年
蒸しごはん(645)で祝う大化の改新 

大化の改新

中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我氏を倒し、始めた天皇中心の政治改革。律令国家体制の礎となった。(1)公地公民(2)班田収授法(3)全国を国と郡に分ける(4)租庸調の税制などを定めた。
12.
百済に援軍を送り白村江の戦いで敗れる 

663年
ろくろく見(663)ないで百済に軍を送る 

白村江の戦い

日本軍が唐と新羅の連合軍に敗北。
13.
壬申の乱が起こる 

672年
壬申で天下を取るぞ胸づもり(672) 

壬申の乱

天智天皇の死後おこった後継者争い。弟の大海人皇子が、子の大友皇子を破り即位し、天武天皇となる。
14.
大宝律令が制定される 

701年
名を一番(701)につけよう大宝律令と 

大宝律令の制定

文武天皇の時代。刑部親王・藤原不比等らが編さん。
15.
奈良に都を移す(平城京) 

710年
なんと(710)立派な奈良の都の平城京 

平城京遷都

元明天皇が藤原京から遷都。
16.
「古事記」がつくられる 

712年
ナイフ(712)で切り貼り、古事記の編さん 

古事記の編さん

稗田阿礼(ひえだ の あれ)が語った話を太安万侶(おお の やすまろ)が筆録するという方法で、太古から推古天皇までの歴史が記述されている。
17.
「風土記」がつくられる 

713年
風土記は5つしか残ってないさ(713) 

風土記の作成

元明天皇が諸国に対して編纂を命じた。地方の文化風土や地勢等が記録された。現在、出雲国風土記がほぼ完本、播磨国、肥前、常陸、豊後の風土記が一部欠損して残ってるだけ。
18.
「日本書紀」が完成する 

720年
何を(720)伝える「日本書紀」 

日本書紀の編さん

舎人親王(とねりしんのう)を中心として編さんされ、太古から持統天皇までの歴史が記述されている。
19.
三世一身法を制定 

723年
なに、三代(723)までの水田か 

三世一身の法

開墾奨励に関する法令の一つで、新たに灌がい施設を作るなどして開墾した水田は3代、それ以外は本人1代に限り私有を認めた。
20.
聖武天皇が天皇になる 

724年
何し(724)ているの?聖武天皇 

聖武天皇が天皇となる

仏教を深く信仰し全国に国分寺と国分尼寺をつくり、都には東大寺をたて大仏をまつった。聖武天皇の頃の文化を天平文化とよぶ。
21.
墾田永年私財法が出される 

743年
三代の制限なしさ(743)、墾田永年私財法 

墾田永年私財法

開墾した土地の永久私有が認められ荘園ができる。聖武天皇の世だが、政治の実権は橘諸兄が握っていた。
22.
東大寺の大仏が完成する 

752年
感激に泣こう2人(752)で大仏完成 

東大寺の大仏開眼

天然痘の流行、貴族たちの争い、農作物の不作などを仏教の力でしずめようと聖武天皇により造像された。
23.
鑑真が唐招提寺を建てる 

759年
南国(759)育ちじゃないよ鑑真さん 

鑑真が唐招提寺を創建

日本の留学僧の願いで日本への渡航を決意したが5度失敗。そのため盲目になったが753年、来日し、律宗をつたえた。
24.
京都の長岡京に都を移す 

784年
悩んで世(784)のため長岡京 

長岡京遷都

桓武天皇が平城京から遷都。建設の中心人物である藤原種継が暗殺され、その後も怪奇な事件が続発したため、わずか10年で平安京へ移ることになる。
25.
京都の平安京に都を移す 

794年
鳴くよ(794)うぐいす平安京 

平安京遷都

桓武天皇が和気清麻呂の建議で長岡京から遷都。平城京と同じく唐の都、長安をまねて作られた。
26.
坂上田村麻呂が征夷大将軍になる 

797年
泣くな(797)田村麻呂、蝦夷征伐 

坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられる

蝦夷征伐を行い、多賀城の北方に胆沢城(いさわじょう)を築き、鎮守府を移した。
27.
最澄が帰国する 

805年
やれご苦労(805)、天台宗の最澄さん 

最澄が唐より帰国

804年、遣唐使に伴って唐に留学。天台宗の教えを受け、翌年帰国。桓武天皇の保護を受けて、新しい宗派の天台宗をおこした。
28.
空海が帰国する 

806年
迷いよはれろ(806)と空海さん 

空海が唐より帰国

804年、遣唐使に伴って唐に留学。密教を学び2年後に帰国。高野山(和歌山県)に金剛峯寺(こんごうぶじ)をたて、真言宗を開いた。
29.
藤原良房が摂政になる 

866年
やろう胸(866)はり摂政の仕事 

藤原良房が摂政となる

皇族以外ではじめて摂政の座に就いた。また、藤原家全盛の礎を築いた存在で、良房の子孫達は相次いで摂政や関白となった。
30.
遣唐使を停止する 

894年
白紙(894)に戻す遣唐使 

遣唐使の停止

菅原道真が宇多天皇に建議した。航海の危険A唐の衰退B外国文化吸収意欲の衰退などが原因。なお、実際に遣唐使として最後に渡航したのは838年。
31.
平将門の乱が起こる 

935年
組ごと(935)戦う将門の乱 

平将門の乱(〜940)

関東で反乱を起こし自らを新皇と称しが、鎮圧された。平将門の乱・藤原純友の乱をあわせ承平・天慶の乱と呼ぶ。この事件を題材とした物語が「将門記」で、最初の軍記物語といわれている。
32.
藤原純友の乱が起こる 

939年
臭く(939)ないぞと純友、乱を起こす 

藤原純友の乱(〜941)

前伊予国司であった藤原純友が伊予を根拠地とし反乱を起こしたが、鎮圧された。平将門の乱・藤原純友の乱をあわせて承平・天慶の乱と呼ぶ。
33.
藤原道長が摂政になる 

1016年
十色(1016)に輝く道長全盛期 

藤原道長が摂政になる

藤原氏による摂関政治全盛期の氏長者。1017年に太政大臣となる。
34.
前九年の役が起こる 

1051年
人を恋(1051)する前九年 

前九年の役(〜1062)

陸奥の土豪、安倍頼時が国司に反抗。源頼義、義家父子が鎮圧し、源氏の東国における勢力確立のきっかけとなる。
35.
藤原頼通が平等院鳳凰堂を建てる 

1053年
人ごみ(1053)あふれる鳳凰堂 

平等院鳳凰堂の完成

平等院は藤原道長の別荘を頼通が寺院としたもの。鳳凰堂は阿弥陀堂で、阿弥陀如来像を安置している。
36.
後三年の役が起こる 

1083年
人を闇討ち(1083)後三年の役 

後三年の役(〜1087)

清原氏の相続争いに源義家が介入。藤原清衡を助けて清原氏を滅ぼした。これにより、源氏は東国で地位を確立した。
37.
白河上皇が院政を始める 

1086年
入れてやろうか(1086)白河院政 

院政の開始

白河上皇は堀河天皇に譲位したが、院政によって自ら政治を行った。
38.
保元の乱が起こる 

1156年
いいころ(1156)起こって清盛・義朝の勝利 

保元の乱

崇徳上皇と後白河天皇の対立に藤原氏、源氏、平氏が加わり、乱に発展した。天皇側が勝利し崇徳上皇は讃岐に流された。天皇側についた平清盛や源義朝ら武士が政界に進出するきっかけとなった。
39.
平治の乱が起こる 

1159年
人々ごくろう(1159)と勝った清盛 

平治の乱

平清盛が源義朝を破る。後白河法皇の院政が続いていたが、以降の平氏政権が確立した。
40.
平清盛が太政大臣になる 

1167年
日々むなしい(1167)道長まねた大臣清盛 

平清盛、太政大臣に就任

最初の武家出身太政大臣となった。
41.
源頼朝が平氏討伐のため挙兵する 

1180年
人々や俺(1180)に続けと源氏が挙兵 

源氏の挙兵

後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が平氏打倒を企て全国に令旨を発し、自らも源頼政と挙兵。以仁王は敗死したが、これをきっかけに各地で源氏が挙兵した。
42.
平氏が壇ノ浦で滅亡する 

1185年
いいやここ(1185)までで平氏の滅亡壇ノ浦 

平氏の滅亡(壇ノ浦の合戦)

一の谷の戦い、屋島の戦いを経て壇ノ浦で源平最後の合戦が行われた。安徳天皇は入水し、平家一門は滅亡した。
43.
源頼朝が守護・地頭を置く 

1185年
いちいちはんこ(1185)押す守護・地頭 

守護・地頭の設置

守護は義経追討を理由として国ごとに、地頭は諸国の荘園・公領に置かれた。
44.
源頼朝が征夷大将軍になる 

1192年
いい国(1192)つくろう鎌倉幕府 

鎌倉幕府成立

後白河法皇の死後、後鳥羽天皇によって源頼朝が征夷大将軍に任命された。
45.
新古今和歌集が完成する 

1205年
いずれも豪華(1205)、新古今和歌集 

新古今和歌集が完成

後鳥羽上皇の命により藤原定家らが編さんした勅撰和歌集。
46.
承久の乱が起こる 

1221年
人に不意(1221)うち承久の乱 

承久の乱

源実朝の死後、後鳥羽上皇が幕府打倒を企て起こした。執権の北条義時は軍を派遣し鎮圧した。後鳥羽上皇は隠岐に流され、京都に六波羅探題が設置された。北条政子の「尼将軍の演説」が有名。
47.
御成敗式目(貞永式目)が制定される 

1232年
北条泰時は1日3人を(1232)御成敗 

御成敗式目(貞永式目)の制定

執権北条泰時によって定められた鎌倉幕府の基本法。51ケ条が定められた。武家による最初の成文法。
48.
元軍が襲来する(文永の役) 

1274年
元軍昨日の位置になし(1274) 

文永の役

元寇(げんこう)最初の事件。執権北条時宗を中心に戦ったが、元軍の集団戦法や火薬の使用に悩まされた。暴風雨に助けられ撃退した。
49.
元軍が再び襲来する(弘安の役) 

1281年
人には言(1281)えない元の2度負け 

弘安の役

2度目の元寇。再び暴風雨に助けられ元軍を撃退した。2度の元寇で、御家人竹崎季長(すえなが)の活躍を描いたのが「蒙古襲来絵巻」である。
50.
鎌倉幕府が徳政令を出す 

1297年
徳政令、皮肉な(1297)結果の経済混乱 

永仁の徳政令

鎌倉幕府が御家人の窮乏を救うためにだした、日本最初の徳政令。徳政令とは借金などを無効にする法令。御家人でない者は大きな損害をこうむり幕府の信用は失墜した。
51.
徒然草が書かれる 

1331年
徒然草にいざサイン(1331)する兼好さん 

吉田兼好により徒然草が書かれる

清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とともに、日本の三大随筆といわれる。
52.
鎌倉幕府が滅びる 

1333年
一味さんざん(1333)鎌倉幕府の滅亡 

鎌倉幕府が滅亡

事実上の最後の執権北条高時は鎌倉を新田義貞に攻められ自殺。鎌倉幕府は滅亡した。六波羅探題は足利高氏(のちの尊氏)に滅ぼされた。
53.
建武の新政が始まる 

1334年
いざ見よ(1334)建武の新政を 

建武の新政

後醍醐天皇による建武の新政は、恩賞が公家に厚く武士に少ないなどの理由で武士からの評判が悪く、足利尊氏の反乱で3年足らずで崩壊した。
54.
後醍醐天皇が吉野(奈良県)で南朝を開く 

1336年
いざ去ろう(1336)吉野へ逃げる後醍醐天皇 

後醍醐天皇、吉野へ逃げる

京都の北朝に対して、吉野山中で南朝を開いた(南北朝の対立)。
55.
足利尊氏が室町幕府を開く 

1338年
父さんみやげは(1338)できたて室町幕府 

室町幕府の成立

足利尊氏が光明天皇(持明院統)から征夷大将軍に任じられる。
56.
南北朝が合一する 

1392年
いざ国(1392)まとめよ南北合一 

南北朝合一

足利義満により南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位するという形式で統一された。以後は交互に天皇を出すことが定められたが守られなかった。
57.
金閣が建てられる 

1397年
義満の遺作なんです(1397)金閣寺 

足利義満により金閣が建てられる

京都北山に建てられたことから足利義満の時代の文化を北山文化と呼ぶ。
58.
足利義満が勘合貿易を始める 

1404年
義満さん、貿易始めた年教えてよ(1404) 

勘合貿易の開始

倭寇と区別するため勘合を利用した貿易を始めた。
59.
正長の土一揆が起こる 

1428年
いっしょにやるぞ(1428)正長の土一揆 

正長の土一揆

高利貸を営んでいた酒屋・土倉・寺院などを農民が襲った。
60.
応仁の乱が起こる 

1467年
人の世むな(1467)しい応仁の乱 

応仁の乱が起こる

東軍の細川勝元と西軍の山名持豊(宗全)の対立、将軍の跡継ぎ争いなどを起因とした大乱。以降、幕府の支配地は山城国のみとなり、幕府権威は失墜し戦国時代となる。
61.
山城の国一揆が起こる 

1485年
いっしょはごめん(1485)だ山城の国一揆 

山城の国一揆(〜1492)

一揆を起こした山城の国人や土民が、8年間にわたって自治を行った。
62.
加賀の一向一揆が起こる 

1488年
一向宗ヤーヤー(1488)さわぐ、加賀一揆 

加賀の一向一揆

一向宗の宗徒たちが加賀の守護を倒し、約百年間にわたって自治を行った。織田信長が柴田勝家に攻めさせ、1580年に滅ぼされた。
63.
鉄砲が種子島に伝来する 

1543年
以後予算(1543)は鉄砲に 

鉄砲伝来

種子島の島主がポルトガル人から鉄砲二丁を購入した。
64.
キリスト教が伝わる 

1549年
以後よく(1549)広まるキリスト教 

キリスト教の伝来

スペイン人のイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルによって鹿児島に伝えられた。
65.
桶狭間の戦いが起こる 

1560年
今川軍、いまごろ驚く(1560)桶狭間 

桶狭間の戦い

今川義元が3万の軍勢を率いて京都へ上がろうとし、織田信長を攻めたが、信長が3千の兵で今川軍を倒した。以後信長は全国統一に乗り出した。
66.
室町幕府が滅びる 

1573年
以後涙(1573)の足利将軍 

室町幕府の滅亡

織田信長が自ら擁立した室町幕府の15代将軍足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡した。
67.
長篠の戦いが起こる 

1575年
行こう名古屋(1575)へ鉄砲隊 

長篠の戦い

三河国の長篠で信長、家康の連合軍が武田勝頼と戦う。信長軍の鉄砲隊が威力を発揮し武田の騎馬隊を大敗させた。武田氏はのちに天目山の戦いで滅亡する。
68.
本能寺の変が起こる 

1582年
行こう奴(1582)は本能寺 

本能寺の変

天下統一を目前にした織田信長が家来の明智光秀によって京都の本能寺で討たれる。明智光秀は山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、逃亡中に殺された(三日天下)。
69.
天正遣欧使節の派遣。 

1582年
イチゴ屋に(1582)少年使節を派遣する 

天正遣欧使節の派遣

九州のキリシタン大名の大友義鎮、大村純忠、有馬晴信がローマ教皇に少年使節を派遣した。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人。
70.
豊臣秀吉が太閤検地を行う 

1582年
十五夜に(1582)検地を行う太閤秀吉 

太閤検地

全国的規模で検地を行い、土地の単位を石高に統一。この検地によって中世以来続いてきた荘園が完全に消滅した。
71.
石山本願寺のあとに大阪城が築城される 

1583年
秀吉が十五夜見(1583)上げる大阪城 

秀吉が大阪城を築く

石山本願寺があった場所に築かれた。3年かけて築城され完成したのは1586年。
72.
豊臣秀吉が関白になる 

1585年
以後はご(1585)立派、関白秀吉 

秀吉が関白になる

ちなみに太閤とは関白または摂政の職を子弟に譲った人物を指し、秀吉も関白を甥の秀次に譲ったので太閤と呼ばれた。
73.
豊臣秀吉が刀狩りを行う 

1588年
行こうバンバン(1588)刀狩り 

刀狩令

百姓が刀などの武器を持つことを禁じた命令。これによって兵農分離が進んだ。
74.
豊臣秀吉が全国を統一する 

1590年
戦国丸く(1590)治めた秀吉統一 

豊臣秀吉が全国を統一

四国、九州を平定後、秀吉は大軍で小田原城を包囲し北条氏政・氏直を降伏させた。
75.
豊臣秀吉が朝鮮に出兵をする 

1592年
異国に(1592)出兵、文禄の役 

文禄の役

最初の朝鮮出兵。日本軍は平壌まで進んだが明軍の来援もあり、停戦講和した。
76.
豊臣秀吉が朝鮮に2度目の出兵をする 

1597年
以後苦難(1597)の慶長の役 

慶長の役

二回目の朝鮮出兵。秀吉の病死を契機に撤退。2度にわたる朝鮮出兵の際、活字印刷術が伝来した。
77.
関ヶ原の戦いが起こる 

1600年
ヒーロー雄々(1600)しく関ヶ原 

関ヶ原の戦い

美濃国関ケ原で石田三成らの西軍(約8万)が徳川家康の東軍(約10万)と戦って敗北(天下分け目の合戦)。わずか1日で終わった。
78.
徳川家康が江戸幕府を開く 

1603年
疲労おさ(1603)えて家康将軍になる 

江戸幕府成立

徳川家康が征夷大将軍に任じられる。1867年の15代将軍徳川慶喜による大政奉還まで、約260年間にわたる江戸時代が始まる。
79.
大阪冬の陣が起こる 

1614年
ヒーロー意思(1614)弱く冬の陣 

大坂冬の陣

京都の方広寺の鐘銘問題(「国家安康、君臣豊楽」の文字が刻まれていた)をきっかけに起こった豊臣氏と徳川氏の戦い。大坂城の外堀を埋めるという内容でいったん和議を結んだ。
80.
大阪夏の陣が起こる 

1615年
ヒーロー以後(1615)出ず夏の陣 

大坂夏の陣

冬の陣の和議はすぐに破れ再び戦いが起こった。豊臣方は敗れ、淀君と豊臣秀頼母子は自害した。
81.
武家諸法度が定められる 

1615年
異論以後(1615)なし武家諸法度 

武家諸法度の制定

江戸幕府の大名統制法。
82.
参勤交代の制度が定められる 

1635年
色みごと(1635)です、大名行列 

参勤交代を制度化

大名を江戸に一定期間交代で参勤させた。妻子は人質代わりに江戸住まいとした。江戸と国の往復や二重生活のため出費がかさみ、藩の財政は困窮した。
83.
島原の乱が起こる 

1637年
キリシタン、一路みんな(1637)で島原へ 

島原の乱(〜1638)

九州の島原、天草地方を中心にキリシタンが反乱を起こし、天草四郎を総大将に原城にたてこもった。
84.
鎖国が完成する 

1639年
異論さく(1639)れつ鎖国の完成 

ポルトガル船の来航禁止

これによって鎖国が完成。以降、長崎で出島を通じてオランダ、清とのみ貿易を行う。
85.
出島でのオランダ貿易が開始 

1641年
色よい(1641)返事で出島に移る 

オランダ人を出島に移す

平戸にあったオランダ商館を長崎の出島に移し、出島を通じてのみ貿易を行った。
86.
慶安の御触れ書きが出される 

1649年
異論よく(1649)聞かずに慶安の御触れ書き 

慶安の御触書

三代将軍家光が農民統制のために出した法令。農業を奨励するとともに、衣食住の制限など農民の生活の細部まで干渉した。
87.
生類憐れみの令が出される 

1687年
色はな(1687)やかなお犬様 

生類憐みの令

5代将軍綱吉による極端な動物愛護令。綱吉は子に恵まれず、子を授かるため戌年生まれにちなんで特に犬を大事にした。1709年廃止。
88.
松尾芭蕉が奥の細道の旅を始める 

1689年
イチロー野球(1689)で、芭蕉は俳句 

松尾芭蕉が奥の細道の旅に出発する

江戸を出発し、奥羽・北陸をめぐった。この旅の紀行文『奥の細道』は芭蕉の最高傑作とされている。
89.
新井白石による正徳の治が行われる 

1710年
非難十分(1710)正徳の治 

新井白石の正徳の治

六代家宣、七代家継に仕えた朱子学者、新井白石によって文治政治が行われた。
90.
享保の改革が始まる 

1716年
吉宗はいーなヒーロー(1716)米将軍 

8代将軍吉宗による享保の改革

(1)新田開発、(2)上米の制、(3)足高の制、(4)年貢率引き上げ(定免法)、(5)公事方御定書、(6)目安箱の設置、(7)大岡忠相の町奉行への登用など。「米将軍」と呼ばれた。
91.
享保の大飢饉が起こる 

1732年
人並みに(1732)お米食べたい享保の大飢饉 

享保の大飢饉

江戸三大飢饉(享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉)のひとつ。
92.
田沼意次が老中になる 

1772年
非難なにか(1772)と、ワイロもらって田沼さん 

田沼意次、老中となる

田沼意次の政治は1786年まで続いた。株仲間の奨励など商業資本の積極的活用をはかったが、賄賂が横行した。
93.
「解体新書」が出される 

1774年
非難なし(1774)だよ「解体新書」 

「解体新書」の刊行

前野良沢・杉田玄白らが翻訳・刊行した。原著はオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」。
94.
天明の大飢饉が起こる 

1783年
天明の大飢饉で、人なやみ(1783) 

天明の大飢饉

江戸三大飢饉(享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉)のひとつ。
95.
松平定信が寛政の改革を始める 

1787年
非難花(1787)さく寛政の改革 

老中松平定信による寛政の改革の開始

(1)囲米の制、(2)寛政異学の禁、(3)人足寄場の設置、(4)帰農令、(5)棄捐令などを実施した。
96.
ラクスマンが根室に来る 

1792年
いきなり急に(1792)ラクスマンが根室来航 

ロシアのラクスマン、根室に来航

日本との通商を求めるために漂流民の大黒屋光太夫をともなって根室に来航した。通商を求めたが、入れられず帰国した。長崎入港の許可が与えられた。
97.
本居宣長が古事記伝を完成させる 

1798年
人泣く話(1798)さ、古事記伝 

本居宣長が「古事記伝を」著す

35年をかけて『古事記』を研究し完成させた。
98.
伊能忠敬が蝦夷地を測量する 

1800年
岩多き(1800)、蝦夷地を測量、伊能さん 

伊能忠敬が幕府の命を受け全国を測量する

17年かけて全国を測量。これをもとに大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)が作成された。
99.
フェートン号事件が起こる 

1808年
オランダの人は追わ(1808)れる、フェートン号事件 

フェートン号事件

イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船捕獲のため長崎湾内に侵入、強奪を働き退去した。この騒動の責任をとり、長崎奉行の松平康英が自害した。
100.
間宮林蔵が樺太を探検する 

1808年
樺太探検、いやお恥(1808)ずかしいと間宮さん 

間宮林蔵が樺太を探検

樺太が離島であることを確認した。間宮海峡を命名したのはシーボルトである。


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